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エドゥアール・アテノジー :生涯

Petit - 55.tif
  1. 風景への没頭 -9x 18 cm / 1915

エドゥアール・アテノジー

エドゥアール・アテノジーはある一人の現代アーティストにより発見、研 究された画家である。彼の作品は今まで美術館で二度ほど展示され、フ ランスのヴォクリューズ県のアカデミーで発表された。エドゥアールの作 品が最初に発見されたのは、フランスの詩人、ルネ・シャールの書斎で あった。そこには繊細で地平線に固定されることなく絵の中に吸い込ま れるような深みのあるエドゥアールの絵画が、長い間飾ってあったのだ。

エドゥアール・アテノジーは1859年にヴォクリューズ県で生まれる。1934 年に亡くなるまでの75年間の彼の人生は 、1870年の普仏戦争から第一次 世界大戦までのフランス第三共和制の時代をまたいでおり、彼はフラン ス史でも激動の時代を生きたといえる。この政治的な変動はまた芸術家 たちの革命にも関係していく。絵画ではポール・セザンヌやヴァン・ゴ ッホ、音楽では、マーラーやリヒャルト・シュトラウス、文学において はポール・ヴェルレーヌやランボーなど・・・。

話はフランス、プロヴァンス地方に戻る。アテノジーは幼少期を、美し い風景に囲まれたソマンヌ・ド・ヴォクリューズで過ごす。その美しい 風景は生涯彼の絵に影響を与えることになる。エドゥアールの父親は彼に 公務員になるように強いたが、息子がアヴィニョンの美術学校に入るこ とは許可した。1882年に卒業したアテノジーはその年の一番優秀な生徒 であった。彼を指導した、美術学校の学長、ピエール・グリヴォラは印 象派の画法を推奨していた一方で、アテノジーはコローやピエール=ア ンリ・ド・ヴァランシエンヌ、フェリックス・ヴァロットンなどの写実 主義に傾倒し、印象派とは距離を保っていた。卒業後、アテノジーは画 家とは別に市役所にも務めており、モネやピサロのような経済的な不安 というものには脅かされなかった。自由な研究、商売目的でない純粋な 制作、自己の探求、それらを満足にできなかったことはアテノジーにと って一種の軋轢であった。それはフランスの詩人ステファヌ・マラルメ が1867年から1871年まで英語の教師として、または詩人としてアヴィニ ョンで生きた時代に感じた苦しみと同じものであった。

アテノジーの画材道具や写真などは彼の住んでいたレ・ザングルの家の 引き出しの奥から、百年以上後に発見され、そこからようやく彼がどの ように描いていたのかが解明された。パレット、筆、絵の具、支持体は 外で風景を描けるように工夫されており、支持体のほとんどが18cm×24 cmの枠を超えない小さなフォーマットのものであった。フェルト生地の 帽子をかぶり、黒いスリーピース・スーツを着用し、絵の具箱をベルト、 絵を入れる箱を反対のベルトループに掛け、アテノジーは座ることので きる杖を持って風景を描きに出かけた。そして膝に道具箱を置き、写生 した。彼は春の時期、ジュネの花で野が染まる少し前に、画材を用意し、秋まで彼の住んでいた レ・ザングルの家の周辺を描き続けた(彼は’’ジュネの花 の画家’’ とも呼ばれていた)。彼は特に細部や様々な光の色彩 に注意していたようだ。1911年から彼の風景画はアテノジー本人にとっ て人生を映し出す鏡のようなものになっていった。

印象派絵画の数ある特徴の中で、アテノジーは風景のしじまを重んじた。 描かれた風景にはほとんど人物は無く、人物が登場しても遠くからまる で枝か茎のように人間味のない様子で描かれる。まるで抽象的な風景の ように、そしてあの素晴らしいアテノジーが描いたマルセイユの夕暮れ の空からも連想されるような、モノクロームの世界のように。このよう な独特な視線は、まるで自然を模倣することが必然かのように、そして まるで風景を描くことがスピリチュアルな模索または禁欲的な修行の果 てでもあるかのように、彼に重く課されるのであった。アテノジーはま た、十年間中国の書画から学んだ画家ファビエンヌ・ヴェルディエも後 の世紀で辿るであろう ’’目には見えない必要なエレメント’’ を形成してい く。なぜなら、かたちというものは我々が『知覚の扉』を取り去ったと き現れる『本質の啓示』であるのだから。

アテノジーは所謂広くを経験する冒険家ではないが、彼の探求心は狭く そして奥深い。彼の芸術に対しての野望は棘の道であった。彼の数枚の 絵の裏には『孤独』という文字が書かれている。ブルジョワジー思考が 流行った当時に、彼が小さなフォーマットを主流としたのは、有名にな るということに無関心であったことを意味する。独特な哲学ゆえ彼の要 求するものを分かち合える人は少なかった。彼の子孫があまり彼の作品 に興味を持っていなかったことからも、彼に名誉欲が無かったことが窺 える。彼は決して称えられた画家ではないが、闇の底で、彼の絵を称賛 する愛好家たちの目を通して、彼の絵画はより一層輝きを増すのであっ た。

アン・ラインボルト

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写真提供:ÉdouardAthénosy©G。Liffran2020
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EdouardAthénosyによるレリーフ
Férigoule1891©G。Liffran2020
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